傍らにある、電話の呼び出し音が鳴った。
受話器を取る。「ハイッ、凸凹病院です!」
「こちら○○救急隊、63歳男性、胸が苦しいと、痛みを訴えてます。…バイタル(生命兆候)、血圧180-250、脈拍(心拍数)85、呼吸毎分40、体温37℃……」
…訳も分からず、ひたすらメモる…。
救急隊員が聞く。「…以上ですが、受け入れ可能ですか?」
「お待ち下さい」と言って、内線電話に切り替え、当直医の先生を呼び出す。
「…先生!○○救急隊からで、63歳男性……」
先生がOKを出されると、電話を戻して、「先生、診るそうです。どの位で到着しますか?…」
……これも、もう十年以上前になるが、警備会社からの派遣で、病院の「夜間休日急患受付」というのを、幾つかの病院でやったことがあった。警備の制服ではなく(別に警備員が駐車場などにいる病院もあった)、事務服を着せられ、病院の職員さんと、いわゆる「医事課」の代役を務めるのである。
今、一緒に多言語を学ぶお仲間に、ドクターの方もいらっしゃるのだが、その方の言うには、「昔は、警備員が受け入れの可否を決める所もあった」そうだ。さすがにボクはソレはなかったが(ドクターが「診ない!」と言えば断ったがw)、その辺りも含めて、今はだいぶ事情も違うかも知れないが、ご了承願いたい。
ドクターとナースと一緒に待っていると、程なくして救急車が到着する。急患の方がストレッチャーに乗せられて、皆が診察室の方へと移動していく。
ここでボクの出番である。ご家族をはじめ付き添いの方を捕まえて、手続きをしてもらうのである。
「えーと、ご家族の方ですか?保険証は、お持ちですか?こちらは初めてですか?こちらの紙に御記入を……」
その後、パソコンを使い、初診ならばカルテを作る。掛かり付けの方だったりすると、カルテ室に走り、他科のカルテや、心電図やレントゲン写真などあれば全て揃えて、診察室へとダッシュするのである。
しばらくすると、診察を終えて、患者さん(患者「様」と言うように言われた病院もあった)本人、ご家族の方が、やって来る。一応治まって、お帰りの場合は、何でもかんでも一律に¥5,000とかの預かり金を頂き、診察券を発行して、次回の御来院等の確認をして、お帰り頂く。(熱心な医事課のお姉さんがいて、分厚い保険点数のファイルを渡され、教え込まれたこともあったw)
学生さんの急性アルコール中毒とか、喘息の発作とかでお越しの場合は、点滴や吸引を終えると帰られることが多かった。
が、救急搬送の場合は、大概ナースセンターから連絡があり、入院となる。そうなると今度は入院の事務手続きである。また場合によっては緊急手術なんてこともあり、その場合は麻酔科の先生に連絡を取ったりしなければならなかった。
当直医は、基本外科系と内科系の2人の先生がいるのだが、小児科とか産科、眼科や耳鼻科の先生が御担当の時は、問い合わせが多かった。また交通事故で複雑骨折とかいうケースだと、いわゆる「三次救急」当番の病院でないと対応できない為、断ったりしていた。インフルエンザが流行った時には、患者さんが大挙して押し寄せ、山のようなカルテを診察室に運びながら、それまで「医療過誤」について激しく批判的だった自分の心が、少し和らいだ気がしたw。
基本的に、平日は夕方~朝9時頃、日曜休日は朝9時頃~翌朝の勤務であった。救急専門というワケでもないので、日曜の午後などは、相棒の職員さんと雑談などしていると、ナースセンターからの内線電話が鳴る。
「605号室の××さんの容態が急変しました。至急、△○先生に連絡して下さい!」
そこで、ゴルフに行っているかも知れないwドクターのポケベル(懐かしいw)を鳴らす。ドクターが戻るのと前後して、××さんの御家族もやって来る。多くの場合、残念ながら、しばらくすると、ナースセンターから、お亡くなりになったとの連絡が入る。提携の葬儀社に連絡し、霊安室の準備をする。御遺族の方が書類を持って、やって来る。ドクターのサインの入った死亡診断書の作成も仕事だった。目の前で号泣されたこともある。やり切れない。
一応、病院の「守衛さん」なので、何回か「巡回」もある。待合室から始まって、病棟、診察室、手術室、解剖室、リハビリセンター、透析センター、新生児棟、霊安室、ドクターの個室などまで見て回った。また駐車場や看護師寮などの外周も巡回した。夜更けの看護師寮前には、何故か高級スポーツカーが多く並ぶw。
病院…それは、「生」と「死」が、まさに日常的に飛び交う場所である。
理数系が苦手なのに、手塚治虫先生の「ブラックジャック」などの影響もあってか、厨二病のように「医学部」など夢見たこともある自分であったが、ナマのドクターやナース、医療の現場を垣間見れたのは、貴重な経験であった。思い出したら、また書いてみたい。
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