燃えたよ…燃え尽きた…真っ白にな…

ウエタツです。

今回のタイトルを見て、「おお、懐かしい!」と思った方、同世代かもです。ハグしましょう♪w

知らない方のためにも少々書くと、これは名作漫画「あしたのジョー」(梶原一騎原作、ちばてつや画)の最終回、ラストシーンでの主人公・矢吹丈の台詞。 世界チャンピオンの座を賭けて最強のボクサーであるホセ・メンドーサに挑んだジョー。 死闘を繰り広げ、結果は善戦むなしく判定負けを喫したものの、自分の全てを出して戦い切り、真っ白な灰となったジョーが、満足げな笑みとともに放ったモノローグです。

場面は、ずっと遡って、ボクサーの道をひた走る矢吹丈と、思いを寄せる乾物屋の紀ちゃんとの、有名な、公園での「デート」のシーン。紀ちゃんがジョーに問いかけます。

「矢吹君は寂しくないの?同じ年頃の若者が、町に海に山に青春を謳歌しているというのに、矢吹君ときたら、来る日も来る日も、汗とワセリンと松脂の匂いが漂う薄暗いジムに閉じこもって、縄跳びをしたり、柔軟体操をしたり、サンドバッグを叩いたり・・・。たまに明るいところへ出るかと思えば、そこは眩しいほどの照明に照らされたリングという檻の中。そこでは、まるで闘犬のように血だらけになって殴りあうだけの生活・・・。なのに、まだ体はどんどん大きく伸びようとしているのに、食べたいものも食べず、飲みたいものも飲まず・・・。惨めだわ、悲惨だわ。青春と呼ぶにはあまりにも暗すぎるわ!」

ジョーが答えます。「紀ちゃん。さっきオレ、ちょっと言葉が足りなかったかのかもしれねぇな。オレは、負い目や義理だけでボクシングやっているわけじゃねぇんだ。ボクシングってやつが好きだからやってきたんだ

「紀ちゃんの言う”青春を謳歌する”って事とは、ちょいと違うかもしれねぇが、オレはオレなりに今まで燃えるような充実感を何度も味わってきたよ。血だらけのリングの上でさ。ブスブスとそこらにある、見てくれだけの不完全燃焼とはわけが違う。ほんの瞬間にせよ、眩しいほどに真っ赤に燃え上がるんだ。そして、後には真っ白な灰だけが残る。燃えカスなんか残りゃしない。真っ白な灰だけだ」(以上、引用)

…来る日も来る日も、トイレの中で、ho、hai、ha…(イタリア語 avere の活用)、電車の中で、j’ai、tu as、il a…(フランス語 avoir の活用)、………とは書いてない、ですねw

「熱いねぇーっ!、青春だねぇーっ!」と思った、同世代以上の友よ!w

「生涯青春」です♪「完全燃焼」していきましょう♪ 燃え上がっていきましょう♪

話は変わります。

先日、ある方に、「 教育とは、教わったことの全てを忘れ去った後に残る、何ものかである 」という言葉を、ご紹介させて頂いたところ、いたく感激されておりました。

ご存知の方も多いと思いますが、 この言葉は、アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein 1879~1955)の語った「教育とは、学校で学んだことを、すべて忘れ去ってしまった後にも、残っているものである。“Education is that which remains, if one has forgotten everything he learned in school”(英文は原文のまま)」です。

教育が目指すべきは、世の中に氾濫している、膨大な量の知識を詰め込むことではなく、それらすべてを忘れ去った後にも、子どもたちの中に確かに残る、より本質的でより根源的なものを携えることにある、と唱えているのです。

ところで、アインシュタインの名言には続きがありました。 「そして、その力を社会が直面する諸問題の解決に役立たせるべく、自ら考え行動できる人間をつくること、それが教育の目的といえよう」 というものです。

ボクは、教育の専門家でもありませんし、今現在「教える」という立場にもありませんが、つまるところ、「教える側」と「教わる側」の、人間対人間同士の、魂の触発、継承といいますか、そういう知識以上のものを与えてくれる先生にめぐり合えた人こそ幸せだと思うし、またそれを感じ取り、受け止めきっていける人こそ偉大だと思います。

生き方、生きざまといったものは、単なる知識のように伝えられるものではなく、全人格的な関わり合いを通じて、はじめて伝えられるものであり、それこそが理想の、また究極の、教育であり、師弟というものだと思います。

以上、魂の「完全燃焼」、魂の「触発」「継承」ということで、少々書いてみました。




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